2007年12月13日木曜日

温故知新

未来学つながりで、林雄二郎先生の昭和44年に書かれた著書「情報化社会~ハードな社会からソフトな社会へ」を読んでるんだけど、非常に面白い。
まだ全部読んだわけじゃないから、ちゃんとしたレビューはまた後日書くと思うけど、この感動をいち早く伝えたいので今ブログに書いている。

とにかくこの本は、ハコモノ社会である高度経済成長の真っ只中に、ソフトなテーマで書いてたこと自体すごいし、その内容も「マーケティング」、「CSR」、「エコツーリズム」というような今話題の言葉を全く使わないで、それと同じような概念を書いてるのがすごい。ただ、今の時代、情報化社会はかなり大衆化しているから、その感覚でこの本を見ても、もの珍くないし、古く薄い内容だと思われても仕方ないかもしれない。

しかししかし、今は情報化社会ではなく結局情報消費社会、ソフトなモノとして期待されていた情報自体が結局ハード化しているので、一部の大手が生産した情報をありがたがって消費する社会。なので、まだまだこの本で指摘されていた事柄は克服できていないのである…しかも、情報=IT、情報化=IT化とか言ってる人もかなり多いけど、それも全然違う。違いまくりまくりすてぃ…

情報とは「知」であり、「コミュニケーションの記号」である。つまり情報化社会というのを砕けて考えてみると、「会話のネタが尽きないような社会」ということではないだろうか。ITというのはそれを引き出すツールなだけで、それ自体はタダのハコモノである。

そんなこんなで、ハコモノとしての情報が発達して、現代は情報の高度経済成長を迎えてるといったわけだけど、このままわたしたちが情報の本質を考えないままハコモノに依存していくと、いずれ大変なことが起こるかもしれない…

今はどんな概念にも名前がついており、お偉い誰かによって定義されているようだ。概念自体の存在は昔からあったのだろうに、余計なことしてると思う。前のブログに書いたけど、ある授業で純粋に面白いと思った概念を発表したら、「その定義は何ですか?」というようなくだらない質問が飛んできた。別に定義なんてどうでもいいのにさ、実際その概念をやってる事例があるんだからそれでいいじゃんかと思う。でも、多くの研究者は定義を求めたがる…

どんな面白い概念も、定義というフィルターにかかってしまえば、たちまちその定義の一事例となってしまう。解釈次第で、それぞれの中でどんどん柔軟に変化するところが面白いのに、定義づけしたら一元的なものとなるので、かなりもったいない。例えば、「CSR」も変に大きく考えなくても、純粋に地域や市民に溶け込んだりするために、盆踊り大会とかに社員さんがでたり、協賛することだけでも十分だと思うし、そもそもまっとうな仕事をして、法人税をしっかり払い、地域に金を落とすことでもいいと思うのに、「CSRはこういうものだ」とか定義されてしまうと、純粋な「主体性」や「自発性」が失われてしまっているように思える。

純粋な主体性や自発性を忘れてしまったら、根本的な問題解決なんかできるわけがなく、がちがちした定義のない時代の本を読むことで、改めて社会問題に対して純粋に考えることができた。「わからない」ということからはじめていくのが必要だと改めて感じた。

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